5月末、久しぶりにひっぴぃ♪♪に会いました。
ずっとバイセクシュアル(両性に、または性別以外の何かに惹かれること/人たち)のための運動をしている友だちです。
2002年パレスチナで行われているイスラエルの非道を記録し世界に伝えるための運動ISMに参加し、イスラエル軍に逮捕されて、それを不当とする裁判をイスラエルで起こし国外退去処分になりました。以来、その時の経験を日本の人たちに伝えるため、大小の報告会を続けています。
それに加え、もともとの活動領域であるセクシュアリティやジェンダー(社会的に決められた性別役割)の話、社会運動そのものの問題、パレスチナで見えてきた「在日外国人」の(より正確に言えば日本にいる「日本人」とそれ以外の人たちの)地位の話など、今やいろんな面白いネタを展開しています。(→ひっぴいのサイト)
私にとってひっぴぃの話が面白いのは、スタンスがかなり共通だからだと思います。
共通だと思ったあたりを私から見ておおざっぱにまとめると、↓こんな感じです。
自分にとって気持のいい生き方をしたい。
そのためには、環境整備もだいじ。
そのためには、社会の中の少数派/権力の少ない側がこうむる痛みや、時には生死に関わる不利益(差別とかね)を、できる限り少なくしたい。
自分が、気づかないまま加害者となる主流派にいる場合でも、痛みを覚える少数派にいる場合でも。
そのためには、自分が今いるこの場で、日常の人間関係の中で、細かな形で起こる痛みも見過ごさないで扱っていくことがだいじ。
(だって、自分が実現できていないことを他人/システムに求めても無理ってものじゃない?)
特に、自分が痛みを感じないトピックの場合は、自分は主流派に属しているということ。ふだん何気なく言ったりしていたりすることの中に、相手の痛みを引き起こす構造が隠れている。だからていねいに見ていこう。
実は、ひっぴぃの言っていることは、プロセスワーク(PW)の創始者A.ミンデルが対立葛藤のワークの際に言うこと(詳細は『紛争の心理学』講談社新書参照)と、かなりの共通性があります。私がPWをお勉強してやっとわかってきたことに、ひっぴぃは自前で到達したわけで、ひっぴぃ、えらーい!
でね。「どうすればいいか(どうあるべきか)わかった!」と思っている時の私は、けっこう要注意です。なぜかというと、気づかない自分、加害者の自分、理想とは違う自分を責めてしまいがちだから。
そうすると、疲れちゃう。せっかくの、「みんなで気持ちよく生きたい」と思う気持が、燃え尽きちゃう。自分で自分への加害者になっちゃいます。さらには、無意識的にだけど、人にもきつくなりがち。
で、私がこのごろほんとうに大事だなあと実感しているのは、まずはただ気づいていること、です。
罪悪感でつらい気持になっているのに気づいたら、「ああ、自分を責めているな」と、まずは思う。そして、その気持が消えていくのを待つ。
ただ気づいているだけでも、気づかないうちに責められてつらい気持になっていたところから、距離が取れます。そうして、自分にたいして「友だち」になる。やさしい気持で向かい合う。気持が静まってから考えたほうが、いい知恵も浮かぶんですよね。
この態度は、アメリカのチベット尼僧ペマ・ショドロンPema Chodronの本で学びました。3年ほど前、自分の中が嵐のようになっている時に読んだのですが、その態度は傷つきまくった自分をやさしくつつむ白い手のようでした。「慈悲」という言葉が、初めて実体験として感じられたんですね。あら、なんか信仰告白のようだわ。でも、「自分にやさしくしていいんだ」と思えたことは、本当に人生の転回点の一つでした。以来、私は比較的自分にやさしくなり、比例して人にもやさしくなりました。あくまで自己申告ですけど~(笑)
これはたぶん、他の仏教の瞑想にも共通のところかもしれません。そういえば、友人の井上ウィマラさんが最近出した本『心を開く瞑想レッスン』(大法輪閣)でも再三言われていました。こちらも面白いので、よろしかったらどうぞ。
ちなみに、PWでも気づきawarenessを強調します。なので、最近の私はようやくそれを実感できるようになった、というコトなんですね(笑)
ただPWでは、ゆっくり待つとか自分にやさしくするなど気づいた後の特定の方針はあまり強調せず、それはプロセスに従う、という態度を取ると思います。
どっちにしろ、言うは易く行なうは難し、なんですが、ご参考までに。